● 字幕、吹き替え翻訳者インタビュー!映像翻訳に出会うまで5回ほど転職しました。
こんにちは。田村恵理子です。
劇場映画の字幕翻訳者は、今も昔も、狭き門です。
映画の字幕翻訳で有名な戸田奈津子さんは、「狭き門と言いますが、門なんてない、壁で囲まれた世界だったのです。」と言われています。
戸田奈津子さんは、狭き門もなき壁の外で、結局、20年間、待って、ようやく字幕の世界に入られたそうです。
一方で、現在は、劇場映画にこだわらなければ、映像翻訳者の需要は結構あります。
衛星放送や動画配信サイトの普及で、洋画や、海外ドラマ、海外のドキュメンタリーなどの、字幕、吹き替え翻訳の需要が増えたためです。
映像の字幕、吹き替え翻訳者の三浦直子さんに、お話を伺いました。
三浦さんは、もともと映像翻訳を目指していたわけではありません。20代、30代は、やりたい仕事を探して5回ほど転職されています。
100人の英語ストーリーその30では、そんな三浦さんの英語ストーリーを伺いました。
英語の教育玩具で、おもちゃ感覚で遊んでいた小学生時代
三浦さんは、小学校の頃から英語は好きでした。英語の専門学校を出ているお母さまも、英語重視の教育方針でした。
家には、英語の教育玩具もありました。絵が書いてあるカードを機械に通すと、英語の音声が流れるタイプのものです。
その機械が面白くて、おもちゃ感覚で遊んでいました。
ハンプティ、ダンプティの話があったことを覚えています。
小学生の時には、日本人の先生の英語の塾にも通っていました。
洋楽にハマった中学、高校時代、英語は得意科目
英語を早くから始めたこともあり、中学校の英語は得意科目でした。
お母さまには、教科書を丸暗記するように言われました。思春期でしたし、親に言われてやるのは、正直イヤでした。
ただ、覚えること自体は、苦ではありませんでした。他の国の言葉を自分で言えるのが面白かったのです。丸ごと暗記して、文法も何も、そのまま覚えました。
その頃、洋楽にハマりました。80年代洋楽全盛期です。
デュランデュランが、すごく好きでした。
歌詞カードを見て、歌ったりもしました。ミュージックライフなどの音楽雑誌も、よく読んでいました。
デュランデュランのインタビュー記事を読んで、インタビューをする人になりたいな、と思いました。
その頃から、自分でも頑張って英語を勉強するようになりました。
英語を話せるようになりたい、映画を字幕なしで見れるようになりたいと、なんとなく、思っていました。
高校でも、文法以外の英語の授業は好きでした。
大学は英語学科で、ESSやホームステイも
大学は英語学科に進み、さらに、ESSにも入りました。サークル内でスピーチの練習をして、大会にも出ました。
それでも、英会話は難しいと感じていました。あまり、外国の人と会話する機会も、ありませんでした。
話せるようになりたいと思い、オーストラリアにホームステイに行きました。初めての海外です。
最初は、オーストラリア英語の発音にも慣れず、全然わかりませんでした。カルチャーショックも受けました、だんだん、通じるようになって、嬉しい!という体験もしました。
ホームステイをきっかけに、海外旅行にハマりました。
卒業旅行は、友達と3人で、ロンドン、パリ、ニース、フィレンツェ、ナポリ、ギリシアに行きました。
そのために、一ヶ月、住み込みのバイトをして、お金を貯めて行ったのです。
周りには、川しかない温泉旅館でしたが、裏方さんには、イランの人が沢山いました。イラン名が発音しにくいので、はるおちゃん、など日本名を書いたバッジをつけて働いていました。大変でしたが、面白い体験でした。
新卒で旅行会社に、そしてロンドン留学
大学卒業後は、旅行会社に入りました。
海外旅行が好きで入社したのです。ところが、配属は国内旅行の経理等で、業務は、旅行とは全く関係ありませんでした。
お仕事自体には、あまり面白さを感じませんでしたが、社割を利用して、安く旅行に行けるのは、旅行会社勤務の特典でした。
3年勤めて、留学の資金を貯めて、退職し、1年ほどロンドンに行くことにしました。
その先、何をするか?は、何も考えていませんでした。
半年間、大学の語学コースに通い、後半は、大学の講義も聴講しました。
デュランデュランに会いに行きたいと思い、バーミンガムにも行きました。
途中で資金が底をつき、アルバイトもしました。ロンドンの日系デパートで、フェンディを担当しました。それまで知らなかった世界を知ることができ、面白い体験でした。
1年弱の留学で、英語は、生活に困らないくらいには、なりました。
留学カウンセラー、翻訳コーディネータとして働く
帰国後は、海外と関係のある仕事をしたいと思いました。留学の経験もありましたし、まず、留学を扱う旅行会社で働きました。
留学したい人の相談にのって、学校を選んだり、手続きをしたり、留学カウンセラーのような、お仕事でした。
その後、翻訳会社に、コーディネータとして転職しました。
契約書や、機械の翻訳のチェックをしました。特許や、機械のマニュアルなども扱いました。
しかし、実務翻訳者になることは考えませんでした。扱っていた技術や法務などの分野には、興味が持てなかったのです。
その翻訳会社で、校正のアルバイトをしていた人と知り合いました。彼女は、アルバイトをしながら映像翻訳の学校に通っていました。
映像翻訳という仕事があるのだ、と思いました。
その時は、自分自身が、映像翻訳者になるとは、思いもしませんでした。
出版翻訳にも興味を持ったものの・・・
出版翻訳に興味を持ったことも、ありました。
会社勤めをしながら通信講座を1年、通学講座を1年ほどやってみたことも、ありました。
通信講座は、途中で添削を出すのが億劫になり、やめてしまいました。
通学も、半年の講座は修了したものの、その後の超有名な先生の講座は、本来1年のところ、半年ほどで止めてしまいました。
課題を訳すのが、とにかく苦痛で、出版翻訳は自分に向いていないということが分かりました。
ただ、小説のセリフの部分を訳すのは楽しくて、先生からもセリフの訳は褒められました。
映像翻訳は、セリフ部分の訳が中心ですから、実は、映像翻訳者に向いていたと言えます。
その時は、のちに映像翻訳者を志すとは、思ってもみませんでした。
日本語教師、翻訳会社でコーディネータ、そして映像翻訳の道に
外国人に日本語を教えてみようと思ったことも、ありました。働きながら1、2年学校に通い、日本語教師の資格を取りました。日本語教師の資格には、それなりに、時間も、お金も、かかります。
1年ほど、日本語学校でも働きました。ハードワークで、毎日13、4時間、仕事をしていました。
先生って大変だな、自分には合わないな、と思いました。
海外で日本語を教えることも考えました。シンガポールでのお仕事でした。面接まで受けて、受かったものの、踏ん切りがつかず、やめました。
その後、別の翻訳会社でも、コーディネーターとして働きました。
あまり、面白いと思えませんでした。何か違うと思いつつ仕事をする日々でした。一人暮らしでしたから、生活費を稼ぐ必要も、ありました。
転職しようかと考えた時に、ふと、映像翻訳のことを思い出しました。
本当に、ふとした、気まぐれで、勉強してみようかな、と思ったのです。
フルタイムで仕事をしながら映像翻訳の学校に
以前に、映像翻訳の話を聞いた同僚とは、友人として繋がっていました。
映像翻訳の学校は、いくつかあります。その中で、友人が卒業した映像翻訳の学校に、通うことにしました。
学校の様子も、話に聞いて分かっていました。その学校は、卒業して試験を受ければ、映像翻訳のエージェントに登録できるシステムでした。仕事につながりやすいと考えたのです。
昼間は仕事をしながら、週2、3回、映像翻訳の学校の夜のコースに通いました。
授業は、実践的でした。実際に、映像を見て訳していきながら、先生が解釈をしていくスタイルです。
映像翻訳の課題も、毎回出されました。フルタイムで仕事をしながら課題をこなしました。
映像翻訳の学校のクラスには、学生さん、OLさんなど、色々な人がいました。
当時は、友達付き合いをする余裕も、ありませんでした。後から振り返ってみると、もう少しクラスメートと、交流しておけばよかったとも、思われるそうです。
フリーの場合、横のつながりで、お仕事が来ることもあるのです。
その映像翻訳の学校では、基礎、中級、実践のコースに、トータルで1年半ほど通いました。
途中からは、結婚が決まり、結婚の準備も加わったため、日々のスケジュールと課題で、本当に精一杯でした。
その頃には、絶対にプロになろうと思っていました。
実践コースの後半に入った頃に結婚し、そこで一旦、昼間の仕事はやめました。しばらくは主婦をしながら、本格的に映像翻訳者を目指すことにしたのです。
映像翻訳の学校を卒業し、トライアルを受け続けた時期
映像翻訳の学校を卒業して、勉強しながら、映像翻訳のエージェントの試験(トライアル)を受けはじめました。
通っていた学校のエージェントのトライアルは、ほぼ毎月、ありました。5分くらいの短い課題の映像に、実際に字幕をつけて、提出するスタイルです
ところが、トライアルの課題は結構むずかしく、なかなか受かりませんでした。受からないと、エージェントに登録ができません。当然、仕事ももらえません。
振り返ってみると、トライアルを受け続けた、その時期が、一番辛かったそうです。
受け続けても、受かるかどうか、分かりませんでした。同期とも、あまり繋がりがなく、相談できる人も、いませんでした。
映像翻訳は字幕も吹き替えも、英語よりも日本語が課題
ひたすら、一人で勉強しました。
学校の勉強の復習をしたり、映画のDVDを借りてきて、自分で字幕つけてみて、実際の字幕と比べたりしました。
写経と呼ばれている勉強も、しました。
映像の字幕を見ながら、ひたすら、字幕の日本語を書き写すのです。作家になりたい方が、先輩作家の文章を筆写するのと同じ方法です。
自分では、出てこない言葉遣いや、言葉のリズムが、良い勉強になります。
映像翻訳でも和訳の場合、日本語力の方が課題となります。
字幕翻訳では、1秒間に4文字までと決まっています。1秒間に4文字というのは、かなり短いです。
言いたいことを、全て言うことは、できません。そのセリフをギュッと凝縮して、日本語で言い表す言葉を探すわけです。言葉のストックが多くないと、うまい表現が出てきません。
吹き替えの場合は、字幕よりも長くても良いのですが、画面で話している長さに合わせなければいけません。
先が見えない日々の中、三浦さんは一人で勉強し、トライアルを受けることを繰り返しました。
そして、トライアルを受けること5回目位で、ようやく合格できました。
ドキュメンタリー、ドラマ、映画の映像翻訳
合格後は、エージェントに登録し、映像翻訳者として、お仕事を始めました。
初期の頃は、ディスカバリーや、ナショナルジオグラフィック等の、ドキュメンタリーの仕事が主でした。
テーマも、車や、人体の不思議、シベリアの鉄道員の話など、多岐にわたりました。
毎回テーマが違い、面白いことは、面白いのですが、調べ物は大変でした。
ふつうに生活していたら、自分は、絶対に興味を持たなかったと思う題材もありました。
たとえば、マグロ漁師の話もありました。漁のやり方の専門用語等、そもそも、日本語でも分かりません。
本で勉強しながら、訳しているうちに、それなりに、愛着が湧いてきたりもしました。
そのうちに、ご自身も好きな、映画やドラマのお仕事の比重が多くなってきました。
ドキュメンタリーに比べると、マニアックなテーマは少ないですが、それでも、専門用語が登場することもあります。
例えば、戦闘機のパイロットのドラマの時は、コックピットの機器やシステムの名前など、飛行機の専門誌を買って、調べます。
現在では、数社の映像翻訳エージェントと、お仕事をしています。
お仕事が来るタイミングにより、本当は、自分が好きな分野なのに、スケジュールが、どうしても合わないこともあります。
一方、内容で依頼をお断りすることは、ありません。
例えば、ホラー映画は苦手で、本当は、見るのは辛いのです。それでも、仕事の時はホラー映画も視聴します。
映像翻訳者になってからも、英語、日本語は常に勉強
プロとして仕事を始めてから、映像翻訳でも、意外と文法が大事だと、実感しました。
スクリプトの読みが甘いと、解釈が違ってしまうことがあります。
勢いで訳していると、違う方向に行ってしまったり、勘違いしてしまうこともあります。
特に初めの頃は、受験の時に使った文法の本を手元に置いておいて、確認しながら訳していました。
スラングは、それほど問題にはなりません。映像翻訳の場合、書き起こしのスクリプトがありますから、調べれば分かります。
スラングを調べるための海外のサイトなども、経験を積むうちに、インデックスが出来てきました。
日本語の語彙については、常に、ストックを増やすことを心がけています。
映画を見ながらも、この表現使えそうだと思ったら、メモ帳に書いておいたりします。
プロとして仕事を始めてからも、ブラッシュアップの意味で、学校に通ったこともあります。
映像翻訳の仕事、収入、魅力
フリーの映像翻訳者として仕事を始めて、今年で、9年目になりました。
常に勉強しながら仕事をしてきて、気がついてみたら、これまでのどの仕事よりも、長く続いていました。
様々な仕事を経て、ようやく、天職とも呼べる今の仕事に出会えたわけです。
映像翻訳のお仕事の魅力は、新しいドラマや映画を、いち早く見られること、そして、毎回、内容が違うため、飽きないことだそうです。
労働時間を考えると、すごく収入が良いというわけではありませんし、きついこともあります。好きだから続けているのでしょうね。と、三浦さんは言われます。
三浦さんとのインタビューは、とっても面白かったです。
もっと詳しく、お聞きしたかったのですが、波乱万丈すぎて、一つ一つのエピソード全てを詳しく伺うことは、とても出来ませんでした。
三浦さんは、現在、本の執筆も考えられているそうです。
フリーランスの映像の字幕、吹き替え翻訳者 三浦さんのブログは、こちらです。
2021年追記
インタビューでお話しを伺ったのは2017年でした。その後、三浦直子さんは、電子書籍を出版されました。ぜひチェックしてみてください!
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